kitakitajijiiのブログ

国鉄時代の駅弁、列車の想い出と食のブログ

国鉄博多駅の列車 1977年6月 その1

 新幹線の博多開業後、その接続のため九州内の昼行の優等列車が増発・新設され博多駅は1日中とても賑やかでした。

 この時期はL特急と呼ばれる列車も充実、「有明西鹿児島行き、「にちりん」宮崎行き、「かもめ・みどり」は長崎・佐世保行きが頻繁に出入りしていました。

 そのほかの昼行特急は「おおよど」、肥薩線経由の宮崎行きです。「まつかぜ」は山陰線経由の大阪行き特急として最長距離を走るディーゼル特急として活躍しています。 日本海を望む絶景の車窓が素晴らしい列車でした。JRになってからも「いそかぜ」として米子・小倉間に短縮になりましたが晩年まで残りました。 

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ディーゼルと電車特急の「にちりん」。

 

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 ディーゼル特急「にちりん」は日豊線(別府・大分)経由の西鹿児島行きです。南宮崎・鹿児島間が未電化のための運用です。

 1979年の日豊線全線電化後、1980年のダイヤ改正でこの車両を使う「にちりん」1往復、同じディーゼル特急「おおよど」とともに廃止されました。

 この年で九州島内のディーゼル特急は すべてなくなりました。

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1976年8月 にちりん 博多駅にて

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肥薩線経由の特急「おおよど」1977年6月

 特急「おおよど」は1974年から1980年の6年間運行しました。博多発の熊本・八代・人吉・吉松・都城経由、宮崎着のルートのローカル特急です。「にちりん」と同じ車両運用をしていたそうで、1980年のダイヤ改正で廃止されました。

つづく

 

鳥栖駅の焼売

 昭和時代、駅弁は、鉄道旅での必需品、また旅における食文化になっていました。 ご飯がついていない「駅弁」として焼売は販売され、とても珍しい存在でした。

 現在、焼売の販売をしている駅は、静岡・小田原・横浜・小淵沢・米沢・鳥栖があります。そのなかで焼売の王座は東の「横浜駅崎陽軒」、西の「鳥栖駅中央軒」と言われています。しかし断とつに有名・かつ売り上げが多いのは横浜なのは明白です。

 しかし私的には焼売の味は、鳥栖のものが日本一美味しいと思います。

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 ある年、昭和31年から販売されていたその味の「焼売」は突然、販売がなくなっていました。代わりに、パック入りの「焼麦」という名称の姿・形・味が変わったのもが販売されていました。味はとても良い味で美味しいものですが、スパイシーさがなくなり今までの鳥栖駅の焼売とは全く違う別のものでした。 

 それから20年後、その多くの人々の意向を受け止めたように、昔の味の焼売がまた復活しました。その時の感動は大きくとてもうれしい出来事でした。

 一つの駅で2種類の焼売が存在する中、復刻版の焼売の販売がやはり大好評。こちらばかりが売れるようになったそうで、今でもよく売れるのはこの復刻版だそうです。

 見た目も、味も抜群。鳥栖駅中央軒のしゅうまいは、肉もミンチにするところから作り、皮も一から手作りで作っている伝統の味なので、最高においしいです。お酒にもよく合い、他の種のおつまみはいらないくらいです。

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 昔の焼売の掛け紙 1974年9月1日

 

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今でも鳥栖駅に行くたび必ずこの焼売を買っています。

臨時列車 華やかりし頃 急行「五島」

 お盆や年末年始、春の移動の多客時には、臨時の特急や急行列車の運行がありました。この写真は名古屋発長崎行きの夜行急行「五島」です。祐徳稲荷神社の最寄り駅「肥前浜駅」です。臨時列車の車両は波動用の客車列車が基本でした。

昭和49年肥前浜駅に停車中の長崎行き臨時急行「五島」

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 臨時急行「五島」は 名古屋~鳥栖は臨時急行「あまみ」に併結、急行としての運転区間は名古屋~鳥栖となっていたそうです。長崎本線内は普通列車扱いとなっていました。

 編成は全車普通車のみです。下りは「名古屋」から「下関」まで全席指定席。上りは「鳥栖」から「名古屋」まで全席指定席の列車です。

 その時代の乗客は、ボックスシートの座席で一夜を過ごさなければならず、今の感覚ではリクライニングの装置がない椅子で夜を過ごすことは至極困難ですね。当時の人々はそれがあたりまえ、その忍耐力はすごいの一言です。

 同じような臨時列車は、西鹿児島行き「屋久島54号」・佐世保行き「西海51号」などありましたが新幹線博多開業を機になくなってゆきました。

 昭和49年4月、その「屋久島54号」に乗車する機会がありました。乗車区間鳥栖・熊本間です。まだ新しい車両でとても空いていましたが、夜の車内での乗客の睡眠の苦悩の後が残っていました。新聞紙を敷いた跡のものが大量に散らばっていました。おそらく車内の廊下・通路で体を伸ばして寝た人が多数いた様です。

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肥前浜駅のDJスタンプ

臨時列車はこの年をピークにして当然減少しました。現在は過密する運行列車ダイヤや引き込み線の減少、余剰車両の減少のなどの要因でほぼ皆無となりました。

国鉄松浦線のディーゼルカー

  蒸気機関車が廃止されてから数年経た昭和51年当時、鉄道施設にはまだまだその名残や戦前の雰囲気を残っていました。無人駅化された駅の古い引き込み線の錆びた線路や大きな駅舎を見ると、その駅の華やかな時代を想像し興味深きものがありました。残念ながらそのような歴史上価値がある写真は1枚もとっておらず、もっぱらディーゼルカーの写真ばかり残っています。

 当時、客車や電車など憧れの列車の写真が撮りたくても、地元では「ディーゼルカー」しか走っていません。その写真を撮ることでどうにか気持ちを紛らわせていました。

 走っている列車でないと「鉄道写真」とはいえないといった鉄道雑誌の影響のため 走行している列車のものが多いです。

 ディーゼルカーの塗装は2色で統一感があり、配色で急行型と普通型に分かれており、興味がわきました。数年後、赤1色に塗装されだしてから、鉄道への熱が冷めていったような気がします。

昭和51年 国鉄松浦駅付近走行の列車

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  写真コンテストに応募できるような名作の鉄道写真を撮りたくて意識して撮影しましたが・・・。まったく良い写真ではありません。(笑)

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 肥前御厨・松浦間を走る普通列車

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昭和51年 志佐川鉄橋を走行中の伊万里行き普通列車

 

昭和50年3月9日 新幹線博多開業1日前の佐世保

 昭和49年の終盤、新幹線岡山・博多開業で山陽の昼行特急がすべて廃止になるという衝撃的なニュースがありました。京都まで運行する佐世保発の唯一の昼行特急「かもめ」も当然廃止の該当列車です。

 昭和50年3月9日、いよいよその最後の日、私は佐世保駅に出かけました。「かもめ号」最後の出発式のセレモニーが行われます。その日は無料でホームに入場することができたのを知らずに入場券を購入してしまいました。驚くほどたくさんの人々が「かもめ号」のお別れのために訪れ、ホームは混雑していました。いろいろな人のあいさつがあった後、吹奏楽団の鉄道唱歌の曲演奏に送られ「かもめ号」は遠くに去ってゆきました。そのセレモニーにとても感動しつつも寂しく悲しい気分でした。

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 当日、駅のホームで配っていた「ご苦労さんかもめ号」の手ふりの紙旗が配られていました。かもめ号を旗を振って見送るためのものです。

 それから1年4か月後の昭和51年7月、「かもめ」が長崎・博多小倉間のL特急して復活 とのニュースを耳にし、大喜びしたものです。

国鉄佐世保線電化開業43週年②

 昭和51年5月前後、国鉄佐世保線電化開業直前には、特急電車や電気機関車の試運転が頻繁に行われていました。2度とない貴重な鉄道光景を見ることができるチャンスです。

 当時中学2年の私、このチャンスを逃すまいと授業が終わるとすぐに撮影に出かけました。下はその時の写真です。

 別の日、開業前の6月なのに電気機関車のみのけん引で客車列車が営業運転しているのを見ました。ずいぶん適当な運用をするな、と当時の国鉄に不信感を抱きました。

 この謎は後で判明、つまり電化開業は昭和51年6月ですでに済み、ダイヤ改正、 営業開始が7月1日だったということでした。 

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昭和51年5月 有田・上有田間 電化開業前の試運転中の電気機関車ディーゼル機関車

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 昭和51年7月長崎佐世保線電化開業記念券

 あれから43年経過しました。当時の列車車両もすべて更新され、特急列車の名前だけは健在です。駅舎は佐世保早岐・有田・武雄温泉・肥前山口ともすべて画一的な駅舎に新築されています。昔から残る貴重な駅は上有田・三間坂だけとなりました。

 更には「高橋・大町」間は複線化工事のまっさ中で、当時のおもかげは更に薄くなりました。

 

佐世保線電化開業 43周年!

 昭和51年7月1日、長崎・佐世保線の電化が開業しました。昭和50年3月10日、新幹線博多開業に合わせての開業予定が1年半以上遅れての開業です。

 開業前の当然話題は新規運行のL特急の動向、名称がどうなるのか、電車は何本くらい運行するのかに注目です。

 長崎発の「かもめ」の復活には大変驚き、喜びました。佐世保発の「みどり」号の復活はなんとなくピンときませんでした。過去に佐世保と縁のあった列車だったそうです。

 電化の「効果」は特急電車が長崎・佐世保から博多・小倉間、「かもめ」7往復「みどり」6往復、そして電車は早朝の門司港行き快速列車が運行するのみでした。他は在来のディ-ゼルカーの運行でほとんど電化の「恩恵」はなかったと思われます。新聞での批判記事も掲載されていました。

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昭和52年6月  肥前山口にて

 特に「みどり」号はわずか4両編成で、たぶん当時の特急列車の最短編成だったと思われます。区間も博多・佐世保間は最短距離と思われ、「特急列車」の「威厳」と「価値」がこの時から全国的に失われ始めたような気がします。

 先頭車は乗客ガラガラのグリーン車・指定席各1両と自由席が2両ありました。 「特別急行列車」から「現在」の「特急」になり下がったような感覚です。

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昭和52年6月  肥前山口にて 博多発肥前山口止まりのかもめ号

つづく