kitakitajijiiのブログ

国鉄時代の駅弁、列車の想い出と食のブログ

駅弁の想い出 門司港駅「みかど食堂」

 駅舎が国の重要文化財に指定されている鹿児島本線の「門司港駅」。2019年3月10日に6年の歳月を経て大正3年当時の姿に改修・復元されグランドオープンしました。

 あわせて門司港駅の2階にレストラン「みかど食堂 by NARISAWA」がオープンしました。白い漆喰壁にこげ茶色のワニス塗装を施した腰壁と天井など、大正時代の雰囲気が復原されています。

 「みかど食堂 」は、1914(大正3)年から1981(昭和56)年まで門司港駅で営業していました。昔は山陽鉄道の急行列車内で食堂車を運営していた「みかど」が全国の主要駅に設けた駅構内の高級洋食店だったそうです。

 この「みかど食堂」は当時の門司港駅の駅弁販売業者です。門司駅小倉駅にはたくさんの種類の特殊弁当が販売されていますが、門司港駅の駅弁は当時ほとんど印象にありません。特殊弁当はなかったと思います。

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    昭和49年11月24日 門司港駅駅弁の掛け紙

 関門橋開通1年後の昭和49年11月、門司の親戚訪問と、廃止間際の山陰線の蒸気機関車D51見学と撮影に両親に連れて行ってもらった時に門司港駅で購入しました。

 門司港発18:00過ぎの博多行きの「特快」の車内で食べたお弁当の内容は、極めて普通の「幕の内弁当」でした。

 

ブルートレインさくら②

 寝台特急「さくら」に乗車する夢がかなったのは二十数年後の1998年、まだ佐世保編成の廃止が発表されないタイミングの時です。

 乗車率が良くない寝台特急でも、お盆・正月の繁忙期はプラチナチケットです。1か月前の朝、JR系の旅行会社に予約開始時間とともに並びました。旅行会社の尽力で家族分のA寝台が確保できました。

 乗車の当日、東京を発車するときの気分は本当にワクワク感いっぱいです。並行する山手・京浜東北線の通勤電車の列車のお客に優越感を感じたものです。

 2人の子供と一緒に車内を見学したり、写真を撮ったりしました。長崎行きの食堂車にはワゴンによる簡易売店があり軽食としてカレーが販売されています。

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 鳥栖駅にて 寝台特急さくら 平成16年

そして大きな窓から夜景を眺めながらのビールと駅弁の夕食はとても贅沢な気分で最高でした。やっと夢がかなった!!と感慨深いものがありました。 

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  鳥栖駅にて 寝台特急さくら 平成16年 この日はヘッドマークがついていません

さすがに夢のA寝台は経年劣化で、廊下のじゅうたんや座席のモケットも色あせていましたが、ベッドは広々としており十分贅沢な気分になりました。製造年が記載されいていましたが、確か昭和47年と表記されていました。B寝台の座席モケットは張替がされておりA寝台よりきれいな感じです。

 朝起きると宇部あたりで駅弁の車内販売がありよく売れていました。下関で機関車交代のため長時間停車しました。ホームでの細麺の立ち食いうどんが人気で、朝食として食べる人もいました。

鳥栖駅にて 寝台特急さくら 平成16年f:id:kitakitajijii:20190629100944j:plain

小倉博多で大半の人が下車、さらに鳥栖・佐賀を過ぎるころは車内は半数位に減りました。肥前山口で長崎行きと分割、武雄、有田、早岐の順で、約16時間以上の乗車、終点佐世保に到着です。今はなき父親が駅まで迎えに来てくれていました。

 列車乗車自体を楽しむことができた時代の貴重な列車旅でした。

ブルートレインさくら

 憧れの「寝台特急さくら」「いつかはこの列車に乗り東京へ行きたい。」と子供のころから想い続けていました。できればA寝台に乗りたい、でも料金が高いな、B寝台だったら3段ベットで窮屈かな、同じボックスの人と仲良くやれるかなとの心配がありました。また食堂車で夕食を車窓を眺めながら食べたいな。・・・もちろん交通公社の時刻表を見ながら、想像の旅の中でのことです。

 更にその時刻表にはさくら・あさかぜの食堂車にはスタンプがあります。との記載があり、なお一層乗りたい想いがMAXになりました。当時の私にとって東京は遥か彼方の夢の大都会。「さくら」は駅で眺め写真を撮るだけの夢の存在。ましては近づくこともはばかれる列車でした。

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       昭和52年6月鳥栖駅にて 東京行き寝台特別急行「さくら」

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昭和52年6月博多駅にて 長崎・佐世保行き寝台特別急行「さくら」

 そう思い続けて20年後、ようやくその夢がかなえることができました。職場が東京へ転勤となり、その帰省で早速「さくら」号に乗車することができました。列車の編成はその時から20年前(昭和50年前後)の編成とほぼ同じで、長崎行き佐世保行きともA寝台そして食堂車(非営業)がついていました。

つづく 

国鉄時代の鳥栖②【ブルートレインみずほ】

 鳥栖駅では夕方になると長距離夜行列車の発着のラッシュとなります。まず東京行きの寝台列車、大阪京都名古屋行きの急行列車、最後に関西寝台特急と続きます。

 中学2年の頃、これらの列車撮影を狙って福岡の親戚の家へ訪問途中、肥前山口で撮影を楽しんだ後、鳥栖へ出かけました。当時鳥栖は私にとって鉄道の聖地で一番好きな場所でした。

 下の写真は寝台特急「みずほ」です。鳥栖駅で長崎発と熊本発が併結し東京へ向かいます。新幹線博多開業までは「はやぶさ」が長崎まで運行していました。f:id:kitakitajijii:20190622105231j:plain

    昭和52年6月5日 寝台特急みずほ 鳥栖駅にて

 この時代の長距離移動は、飛行機より夜行列車が主流で、ブルートレインブームもあり寝台特急の最盛期でした。東京行きには食堂車もついており華やかな時代です。

 寝台特急ヘッドマークは東京発以外は廃止されていました。関西発も新幹線博多開業以降廃止、九州では昭和47年に廃止。機関車には特急らしさはありませんでした。列車を見分けるのはもっぱら最後尾の列車名表示のみでした。その後、サービス向上の目的で昭和59年2月のダイヤ改正で、正式に九州地区でヘッドマークが復活しました。

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     昭和52年6月5日 寝台特急みずほ 鳥栖駅にて

この「みずほ」列車は、JRへの民営化も残ります。当時長崎発の東京行は「さくら」と「みずほ」の2本立でした。しかしこの列車は、東京~九州ブルートレインの衰退・削減の象徴でもあるかのように1994年12月、真っ先に廃止されてしまいました。

 さておき、当時の私はこれより夕方遅く、急行列車で博多まで行きました。当時浪人中の兄やいとこ、今はなき叔父・伯母のあたたかい歓待を受け、とても充実した鉄道旅行を楽しむことができました。

 

国鉄時代の鳥栖①

 鉄道の町鳥栖、特に客車系が好きな人にはパラダイスでした。

当時長崎・佐世保線には早朝の博多行き「快速」列車がありました。(鳥栖、博多間1~2駅通過の名ばかり快速)時刻表に「快速」とは表示されていません。急行用車両編成「いなさ」「弓張」の車両が使用されグリーン車も連結され豪華な普通列車でした。肥前山口で長崎発と併結、急行「西海」がこの駅で交換もみられ、鉄道自体を楽しむことができる列車でした。その列車に乗ってあこがれの鳥栖へ出かけました。

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昭和51年6月 鳥栖駅にて

 鳥栖には大規模の客車区・機関区・広大な貨車ヤードがあり、汽車好きの私には本当にパラダイスでした。様々な種類の客車、茶色・青色のものや荷物車、グリーン車マークがつき、淡緑色の帯があるお座敷列車も留め置きされていました。

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昭和51年8月鳥栖駅にて お座敷列車(写真失敗作 ゴメンナサイ

  鳥栖機関区は大きな扇形車庫が2つもあり、かつて九州の鉄道網の中心地であった機関車基地でした。昭和47年3月にはSLは無配置となりディーゼル機関車基地となっていました。長崎線方面行きの客車列車のほとんどはこの駅で機関車が交代、その作業を見学することができました。1日ホームにいても飽きが来ない素晴らしい場所でした。

 しかし昭和59年2月、所属車両がすべて他区へ転出し車両無配置の乗務員区となりました。今では当時の活況は嘘のように静まり返った駅になっていますが、ホームや駅舎は昔の面影を残しています。

つづく

 

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駅弁の想い出【東唐津駅】

 昭和40年代、当時の「駅」としてのステイタスは「駅弁」「赤帽」そして「みどりの窓口」がある駅でした。交通公社の時刻表に記載されており、私の中で鉄道旅(想像のなかでの旅)重要な情報でした。(実際行けないので・・・) 

 今回の筑肥線東唐津駅」は、主要本線以外で「駅弁」を販売する唯一の駅としてとてもステイタスが高い駅でした。列車の本数に比べ乗客がとても多く、赤字国鉄とは思えない情況でした。しかし列車の車両はとても古いものが充当され、長椅子の車両がメインでした。 

 列車の窓からの景色、玄界灘の海が美しく、観光を目的とする乗客にもとてもよい路線だったといえます。

 

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1976年8月 東唐津駅 

 東唐津駅にはディーゼルカー車両基地があり、いつもたくさんの車両が滞留していました。ホームは一面で1・2番乗り場があり、主要駅らしく鉄道弘済会売店が設置されていました。門司港駅のように終着駅の構造で、すべての列車がここでスイッチバックします。 

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     昭和50年4月 東唐津駅弁の掛け紙

          とても趣がある掛け紙です!!

 当時、長時間停車の中、ホームの売店で駅弁の販売がされており、弁当を買ったものの、乗客がどっと乗車し満杯になりました。そのなかで駅弁を食べましたが、味わって食べられる雰囲気ではなく、さすがに子供の私でも楽しみにしていた駅弁を味わうことができませんでした。

 塩しゃけが入っていたのが印象に残っており、列車内の雰囲気なのか美味しくなかった記憶があります。

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 昭和52年頃の掛け紙、個性がなくなり面白くありませんね!! 

 

 

 

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国鉄時代の松浦駅②臨時急行

平戸大橋が開通した昭和52年4月、国鉄松浦線は福岡方面からの観光客が増加しました。その頃の多客期間に臨時急行列車平戸51号が運行されまていました。博多発筑肥線松浦線経由で平戸口どまりの臨時列車です。

 急行「平戸号」に続き2本目の急行がなんと松浦線に運行される!!当時大興奮しカメラを持って出かけました。ワクワクドキドキで行ってみると、古い2両編成で非冷房車が担当車両でした。どう見ても普段普通列車に使用されるような車両だったのでちょっぴり違和感を感じました。

 やはり松浦線は田舎だからこんな格下車両を充当したのかな?と感じました。

しかしながらバスのような窓が珍しい車両でしたので貴重な写真を撮ることができました。

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昭和52年平戸51号博多行き 松浦にて 

 

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臨時急行「平戸」 平戸口にて

 古い写真で写りが良くありません。ゴメンナサイ!!

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 臨時急行平戸52号? 博多駅にて    通常運行の平戸号 博多行き松浦駅

こちらは後日博多駅で撮った写真です。この写真も非冷房車です。普段見ない「黄色の列車」だったので、貴重な感じがしました。修学旅行などの臨時専用車両だったそうです。

 この臨時急行列車の停車駅は、通常の「平戸」号よりも多く、普段は急行の止まらなかった駅もありました。

 しかしこの臨時運行も乗車率もだんだんと落ちてゆき、長くは続かなかったようです。

 つづく