国鉄松浦線ディーゼルカーの想い出
1975年、松浦駅キハ17
今回は、国鉄型車両が消滅した記念に当時のディーゼルカーの全盛期の写真が残っていましたので公開します。
当時は松浦起点の普通列車が多数存在しました。当時、一番古い車両が(キハ17)が主に運行されていました。また早朝の平戸口発長崎行きには松浦線唯一のグリーン車が連結されていました。・・・・
そしてついに2021年6月30日、国鉄型車両が佐世保地区から消滅しました。
翌7月1日に早岐駅にキハ66・67の残留車両を確認に行きましたが、すでにその姿は1両もありませんでした。(10年前のキハ58廃止の時はしばらく早岐の車両区に留置されていたので期待していました。)
すでに最新鋭の車両にすべて入れ替わっていました。早くも熊本の川尻駅に解体のため回送されたそうです。1編成くらいはイベント列車として残留を期待していましたが、かなわぬ夢となりました。
いよいよ昭和は遠い過去になりました。
国鉄型キハ66・67ついに運行廃止
廃車間際のキハ66・67 早岐駅にて 2021年6月下旬
昭和50年3月、新幹線博多開業記念の福岡博覧会からの帰り、国鉄博多駅の篠栗・筑豊線行きのホームで斬新なディーゼルカーが入線していました。
外観と塗装は急行型、室内はなんと座席はクロスシートで、特急型車両を彷彿させる列車に衝撃を受けました。飯塚直方地区の人がうらやましくなったほどです。
それから約25年後、筑豊地区から大村線に運用が転属され、毎日目の前にある佐世保線でその国鉄型車両目にすることができました。
中でも2編成は旧国鉄急行型カラーに再塗装され、その姿を見ることが出勤時の元気の素になり 楽しみの一つにしていました。
またしばしば国鉄を懐かしむ企画、国鉄時代の急行の名称を復活させた列車ツアーを、いつも注目していました。
製造以来46年間、いつ廃車になってもおかしくない車両でしたが、ついに5月下旬にこの車両が6月末で廃車との報道がされました。国鉄を懐かしむことのできる列車がなくなりとても寂しくなりました。
憧れの駅弁 横浜駅シュウマイ御弁当
今では超有名人気の駅弁、横浜駅シュウマイ御弁当です。今どきの駅弁の大半は紙箱がメインとなっています。今ではとても少ない昔ながらの掛け紙と、経木のお弁当箱。これぞ昔からの駅弁の原形です。
さて、この「シュウマイ御弁当」は昭和29年からの超ロングセラーの大人気の駅弁です。今や首都圏の各デパートや駅、羽田空港などで販売されています。昔ながらのシュウマイのほか、まぐろのつけ焼き、かまぼこ、鶏のから揚げ、玉子焼き、筍煮、あんずなどが入っています。
東の横浜駅、西の鳥栖駅と言われる焼売。日本の2大シュウマイ、昔ながらの経木の駅弁とシュウマイの美味しさは最高です。ご飯の質も最高!
このほかシュウマイ単品があります。ひょうちゃんという酢醤油入れがあり 、その柄もひとつひとつ違いうので収集するのにとても楽しく思えます。
東京へ行った際の私の必須の崎陽軒の食べ物です!!
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急行列車全盛の時代
今はなき「急行列車」
昭和50年前後、急行列車の全盛の時代でした。特急は本当の意味で特別急行列車でした。乗ることは贅沢の極み、近くで見るだけの憧れの存在、それが特急列車でした。 急行列車の自由席が当時許された最大の贅沢でした。乗車券と赤色の急行券を手にした瞬間のワクワク感はいまだに忘れられません。新幹線博多開業より、特急列車が大衆化し「普通の人」でも特急に乗ることができる時代になりました。
現在JRではいつの間にかすべてが特急列車になってしまい、急行列車は存在しません。更に区間により特急料金を払わずに乗られる区間もあります。(佐世保早岐間など)
昭和51年6月急行弓張
昭和50年11月急行弓張 電化工事はまだ進んでいません。
新幹線博多開業でこの急行弓張は4往復から8往復に増便、他には別府行き急行西九州や呉行き急行出島(博多開業で廃止、いなさ号の代わりに出島号となる)、大阪行き急行西海が運行されていました。
昭和51年7月急行「西海」
車両もこのころから特急型車両が急行に使われ始めました。この急行西海もその一つです。新幹線博多開業1日前までは、A・B寝台とグリーン車を連結した旧型客車の魅力的な編成でした。
改正前に購入した昭和50年3月の国鉄時刻表の車両編成を見ると、注目の急行「西海」号は3月10日より全座席指定の列車になっていました。さそかし急行型の12系の運用になるのだろうとの予想を裏切り、特急型の14系車両を見た時の衝撃は大きなものでした。
昭和49年1月急行西海1号と昭和50年3月の急行西海
寝台特急さくらラストラン③
2005年2月28日いよいよさくら号のラストラン、出発式が行われました。上り東京行き列車でもう2度と長崎には戻ってきません。同日の下り東京発列車は鳥栖止まりで運行終了です。ホームは見送る人で大混雑していました。いかに長崎の人々にとって想い出深い列車だったことがわかります。
寝台列車は乗ること自体が楽しい。今は長距離の移動は航空機によるものが当然主流となっており、時間をお金で買う時代、寝台列車はまったく違う考え方のものですね。
さくらの廃止は、「平成」の時代まで残っていた「昭和」の時代の終わりをつげるものでした。
記念入場券の発売や九州キヨスクによる記念切手の予約販売がありました。思い出の一品としてすべて購入しました。
2005年2月 出発前の待機中のさくら 長崎にて
多くの人々に囲まれた出発間際の寝台特急さくら
九州キオスクから予約販売された「ありがとう寝台特急さくら」記念切手
長崎駅でのありがとう「さくら号」イベントでの九州内で使われたヘッドマークの展示
その後2011年3月「さくら」は「みずほ」とともに九州新幹線の名称に使われ「復活」しました。しかし寝台特急ならではの「さくら」が唯一無二のものです。
おわり
寝台特急「さくら」ラストラン②
2005年2月28日で廃止の寝台特急「さくら」号。その最後の数日間のお別れセレモニーの期間中、ヘッドマークは長崎・鳥栖間、昔から伝統の「さくら」単独のものに取り換えられました。
2005年2月 ラストラン間際の寝台特急さくら
このヘッドマークも様々な種類のもがありました。国鉄時代からの九州のものは、さくらの花がピンク色のものが主流です。東京発は白い花にピンクの縁取りでした。
このヘッドマークの取り付けは、JR九州の粋なはからいに大いに喜ばれました。
またこのころ、心ない人によるヘッドマークの盗難事件も発生しておりニュースざたになりました。発車前待機中の寝台特急さくら2005年2月
また、最後の「さくら」の編成にはオロネ15の個室A寝台が加わりました。
「さくら」廃止以降の次の編成(はやぶさ・富士)の準備をスムーズにするためのわずかの期間の編成です。
さくらへのA寝台は佐世保編成の廃止以来7年ぶりでした。しかも個室寝台は20系の時以来三十数年ぶりの復活でした。
つづく
寝台特急「さくら」ラストラン①
1998年12月、佐世保編成廃止後、東京行きの「さくら」は熊本発の「はやぶさ」との併結で運行を続けていました。ヘッドマークは「さくら」と「はやぶさ」が混じったものに変更されました。これからも未来永劫、「さくら」は走り続けるものとして見守っていましたが。…2004年12月、衝撃のニュースが走りました。【寝台特急さくら号廃止、運行から半世紀、利用者低迷で終着駅へ】と新聞にも掲載されました。
終末期のさくらはB寝台(B個室寝台1両含む)だけの6両編成になっていました。 航空機全盛のこの時代、この形態の列車の存続は不可能であり、むしろこの時代まで生き残ったのが奇跡といえるでしょう。しかし子供のころからの憧れの存在であったこの列車の廃止は寂しく悲しいものでした。
長崎駅では最後の5日間、さようならさくら号セレモニーが行われました。ものすごくたくさんの人々が「さくら」のお別れに来ていました。
つづく