kitakitajijiiのブログ

国鉄時代の駅弁、列車の想い出と食のブログ

国鉄松浦線のディーゼルカー

  蒸気機関車が廃止されてから数年経た昭和51年当時、鉄道施設にはまだまだその名残や戦前の雰囲気を残っていました。無人駅化された駅の古い引き込み線の錆びた線路や大きな駅舎を見ると、その駅の華やかな時代を想像し興味深きものがありました。残念ながらそのような歴史上価値がある写真は1枚もとっておらず、もっぱらディーゼルカーの写真ばかり残っています。

 当時、客車や電車など憧れの列車の写真が撮りたくても、地元では「ディーゼルカー」しか走っていません。その写真を撮ることでどうにか気持ちを紛らわせていました。

 走っている列車でないと「鉄道写真」とはいえないといった鉄道雑誌の影響のため 走行している列車のものが多いです。

 ディーゼルカーの塗装は2色で統一感があり、配色で急行型と普通型に分かれており、興味がわきました。数年後、赤1色に塗装されだしてから、鉄道への熱が冷めていったような気がします。

昭和51年 国鉄松浦駅付近走行の列車

f:id:kitakitajijii:20190708221239j:plain

  写真コンテストに応募できるような名作の鉄道写真を撮りたくて意識して撮影しましたが・・・。まったく良い写真ではありません。(笑)

f:id:kitakitajijii:20190629163724j:plain

 肥前御厨・松浦間を走る普通列車

f:id:kitakitajijii:20190709211816j:plain

昭和51年 志佐川鉄橋を走行中の伊万里行き普通列車

 

昭和50年3月9日 新幹線博多開業1日前の佐世保

 昭和49年の終盤、新幹線岡山・博多開業で山陽の昼行特急がすべて廃止になるという衝撃的なニュースがありました。京都まで運行する佐世保発の唯一の昼行特急「かもめ」も当然廃止の該当列車です。

 昭和50年3月9日、いよいよその最後の日、私は佐世保駅に出かけました。「かもめ号」最後の出発式のセレモニーが行われます。その日は無料でホームに入場することができたのを知らずに入場券を購入してしまいました。驚くほどたくさんの人々が「かもめ号」のお別れのために訪れ、ホームは混雑していました。いろいろな人のあいさつがあった後、吹奏楽団の鉄道唱歌の曲演奏に送られ「かもめ号」は遠くに去ってゆきました。そのセレモニーにとても感動しつつも寂しく悲しい気分でした。

f:id:kitakitajijii:20190630104348j:plain

 当日、駅のホームで配っていた「ご苦労さんかもめ号」の手ふりの紙旗が配られていました。かもめ号を旗を振って見送るためのものです。

 それから1年4か月後の昭和51年7月、「かもめ」が長崎・博多小倉間のL特急して復活 とのニュースを耳にし、大喜びしたものです。

国鉄佐世保線電化開業43週年②

 昭和51年5月前後、国鉄佐世保線電化開業直前には、特急電車や電気機関車の試運転が頻繁に行われていました。2度とない貴重な鉄道光景を見ることができるチャンスです。

 当時中学2年の私、このチャンスを逃すまいと授業が終わるとすぐに撮影に出かけました。下はその時の写真です。

 別の日、開業前の6月なのに電気機関車のみのけん引で客車列車が営業運転しているのを見ました。ずいぶん適当な運用をするな、と当時の国鉄に不信感を抱きました。

 この謎は後で判明、つまり電化開業は昭和51年6月ですでに済み、ダイヤ改正、 営業開始が7月1日だったということでした。 

f:id:kitakitajijii:20190703221906j:plain

昭和51年5月 有田・上有田間 電化開業前の試運転中の電気機関車ディーゼル機関車

f:id:kitakitajijii:20190629173425j:plain

 昭和51年7月長崎佐世保線電化開業記念券

 あれから43年経過しました。当時の列車車両もすべて更新され、特急列車の名前だけは健在です。駅舎は佐世保早岐・有田・武雄温泉・肥前山口ともすべて画一的な駅舎に新築されています。昔から残る貴重な駅は上有田・三間坂だけとなりました。

 更には「高橋・大町」間は複線化工事のまっさ中で、当時のおもかげは更に薄くなりました。

 

佐世保線電化開業 43周年!

 昭和51年7月1日、長崎・佐世保線の電化が開業しました。昭和50年3月10日、新幹線博多開業に合わせての開業予定が1年半以上遅れての開業です。

 開業前の当然話題は新規運行のL特急の動向、名称がどうなるのか、電車は何本くらい運行するのかに注目です。

 長崎発の「かもめ」の復活には大変驚き、喜びました。佐世保発の「みどり」号の復活はなんとなくピンときませんでした。過去に佐世保と縁のあった列車だったそうです。

 電化の「効果」は特急電車が長崎・佐世保から博多・小倉間、「かもめ」7往復「みどり」6往復、そして電車は早朝の門司港行き快速列車が運行するのみでした。他は在来のディ-ゼルカーの運行でほとんど電化の「恩恵」はなかったと思われます。新聞での批判記事も掲載されていました。

f:id:kitakitajijii:20190629174615j:plain

昭和52年6月  肥前山口にて

 特に「みどり」号はわずか4両編成で、たぶん当時の特急列車の最短編成だったと思われます。区間も博多・佐世保間は最短距離と思われ、「特急列車」の「威厳」と「価値」がこの時から全国的に失われ始めたような気がします。

 先頭車は乗客ガラガラのグリーン車・指定席各1両と自由席が2両ありました。 「特別急行列車」から「現在」の「特急」になり下がったような感覚です。

f:id:kitakitajijii:20190629174109j:plain

昭和52年6月  肥前山口にて 博多発肥前山口止まりのかもめ号

つづく

 

駅弁の想い出 門司港駅「みかど食堂」

 駅舎が国の重要文化財に指定されている鹿児島本線の「門司港駅」。2019年3月10日に6年の歳月を経て大正3年当時の姿に改修・復元されグランドオープンしました。

 あわせて門司港駅の2階にレストラン「みかど食堂 by NARISAWA」がオープンしました。白い漆喰壁にこげ茶色のワニス塗装を施した腰壁と天井など、大正時代の雰囲気が復原されています。

 「みかど食堂 」は、1914(大正3)年から1981(昭和56)年まで門司港駅で営業していました。昔は山陽鉄道の急行列車内で食堂車を運営していた「みかど」が全国の主要駅に設けた駅構内の高級洋食店だったそうです。

 この「みかど食堂」は当時の門司港駅の駅弁販売業者です。門司駅小倉駅にはたくさんの種類の特殊弁当が販売されていますが、門司港駅の駅弁は当時ほとんど印象にありません。特殊弁当はなかったと思います。

f:id:kitakitajijii:20190630103254j:plain

    昭和49年11月24日 門司港駅駅弁の掛け紙

 関門橋開通1年後の昭和49年11月、門司の親戚訪問と、廃止間際の山陰線の蒸気機関車D51見学と撮影に両親に連れて行ってもらった時に門司港駅で購入しました。

 門司港発18:00過ぎの博多行きの「特快」の車内で食べたお弁当の内容は、極めて普通の「幕の内弁当」でした。

 

ブルートレインさくら②

 寝台特急「さくら」に乗車する夢がかなったのは二十数年後の1998年、まだ佐世保編成の廃止が発表されないタイミングの時です。

 乗車率が良くない寝台特急でも、お盆・正月の繁忙期はプラチナチケットです。1か月前の朝、JR系の旅行会社に予約開始時間とともに並びました。旅行会社の尽力で家族分のA寝台が確保できました。

 乗車の当日、東京を発車するときの気分は本当にワクワク感いっぱいです。並行する山手・京浜東北線の通勤電車の列車のお客に優越感を感じたものです。

 2人の子供と一緒に車内を見学したり、写真を撮ったりしました。長崎行きの食堂車にはワゴンによる簡易売店があり軽食としてカレーが販売されています。

f:id:kitakitajijii:20190629101147j:plain

 鳥栖駅にて 寝台特急さくら 平成16年

そして大きな窓から夜景を眺めながらのビールと駅弁の夕食はとても贅沢な気分で最高でした。やっと夢がかなった!!と感慨深いものがありました。 

f:id:kitakitajijii:20190629101047j:plain

  鳥栖駅にて 寝台特急さくら 平成16年 この日はヘッドマークがついていません

さすがに夢のA寝台は経年劣化で、廊下のじゅうたんや座席のモケットも色あせていましたが、ベッドは広々としており十分贅沢な気分になりました。製造年が記載されいていましたが、確か昭和47年と表記されていました。B寝台の座席モケットは張替がされておりA寝台よりきれいな感じです。

 朝起きると宇部あたりで駅弁の車内販売がありよく売れていました。下関で機関車交代のため長時間停車しました。ホームでの細麺の立ち食いうどんが人気で、朝食として食べる人もいました。

鳥栖駅にて 寝台特急さくら 平成16年f:id:kitakitajijii:20190629100944j:plain

小倉博多で大半の人が下車、さらに鳥栖・佐賀を過ぎるころは車内は半数位に減りました。肥前山口で長崎行きと分割、武雄、有田、早岐の順で、約16時間以上の乗車、終点佐世保に到着です。今はなき父親が駅まで迎えに来てくれていました。

 列車乗車自体を楽しむことができた時代の貴重な列車旅でした。

ブルートレインさくら

 憧れの「寝台特急さくら」「いつかはこの列車に乗り東京へ行きたい。」と子供のころから想い続けていました。できればA寝台に乗りたい、でも料金が高いな、B寝台だったら3段ベットで窮屈かな、同じボックスの人と仲良くやれるかなとの心配がありました。また食堂車で夕食を車窓を眺めながら食べたいな。・・・もちろん交通公社の時刻表を見ながら、想像の旅の中でのことです。

 更にその時刻表にはさくら・あさかぜの食堂車にはスタンプがあります。との記載があり、なお一層乗りたい想いがMAXになりました。当時の私にとって東京は遥か彼方の夢の大都会。「さくら」は駅で眺め写真を撮るだけの夢の存在。ましては近づくこともはばかれる列車でした。

f:id:kitakitajijii:20190626215623j:plain

       昭和52年6月鳥栖駅にて 東京行き寝台特別急行「さくら」

f:id:kitakitajijii:20190626220039j:plain

昭和52年6月博多駅にて 長崎・佐世保行き寝台特別急行「さくら」

 そう思い続けて20年後、ようやくその夢がかなえることができました。職場が東京へ転勤となり、その帰省で早速「さくら」号に乗車することができました。列車の編成はその時から20年前(昭和50年前後)の編成とほぼ同じで、長崎行き佐世保行きともA寝台そして食堂車(非営業)がついていました。

つづく