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国鉄時代の駅弁、列車の想い出と食のブログ

国鉄時代の鳥栖②【ブルートレインみずほ】

 鳥栖駅では夕方になると長距離夜行列車の発着のラッシュとなります。まず東京行きの寝台列車、大阪京都名古屋行きの急行列車、最後に関西寝台特急と続きます。

 中学2年の頃、これらの列車撮影を狙って福岡の親戚の家へ訪問途中、肥前山口で撮影を楽しんだ後、鳥栖へ出かけました。当時鳥栖は私にとって鉄道の聖地で一番好きな場所でした。

 下の写真は寝台特急「みずほ」です。鳥栖駅で長崎発と熊本発が併結し東京へ向かいます。新幹線博多開業までは「はやぶさ」が長崎まで運行していました。f:id:kitakitajijii:20190622105231j:plain

    昭和52年6月5日 寝台特急みずほ 鳥栖駅にて

 この時代の長距離移動は、飛行機より夜行列車が主流で、ブルートレインブームもあり寝台特急の最盛期でした。東京行きには食堂車もついており華やかな時代です。

 寝台特急ヘッドマークは東京発以外は廃止されていました。関西発も新幹線博多開業以降廃止、九州では昭和47年に廃止。機関車には特急らしさはありませんでした。列車を見分けるのはもっぱら最後尾の列車名表示のみでした。その後、サービス向上の目的で昭和59年2月のダイヤ改正で、正式に九州地区でヘッドマークが復活しました。

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     昭和52年6月5日 寝台特急みずほ 鳥栖駅にて

この「みずほ」列車は、JRへの民営化も残ります。当時長崎発の東京行は「さくら」と「みずほ」の2本立でした。しかしこの列車は、東京~九州ブルートレインの衰退・削減の象徴でもあるかのように1994年12月、真っ先に廃止されてしまいました。

 さておき、当時の私はこれより夕方遅く、急行列車で博多まで行きました。当時浪人中の兄やいとこ、今はなき叔父・伯母のあたたかい歓待を受け、とても充実した鉄道旅行を楽しむことができました。

 

国鉄時代の鳥栖①

 鉄道の町鳥栖、特に客車系が好きな人にはパラダイスでした。

当時長崎・佐世保線には早朝の博多行き「快速」列車がありました。(鳥栖、博多間1~2駅通過の名ばかり快速)時刻表に「快速」とは表示されていません。急行用車両編成「いなさ」「弓張」の車両が使用されグリーン車も連結され豪華な普通列車でした。肥前山口で長崎発と併結、急行「西海」がこの駅で交換もみられ、鉄道自体を楽しむことができる列車でした。その列車に乗ってあこがれの鳥栖へ出かけました。

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昭和51年6月 鳥栖駅にて

 鳥栖には大規模の客車区・機関区・広大な貨車ヤードがあり、汽車好きの私には本当にパラダイスでした。様々な種類の客車、茶色・青色のものや荷物車、グリーン車マークがつき、淡緑色の帯があるお座敷列車も留め置きされていました。

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昭和51年8月鳥栖駅にて お座敷列車(写真失敗作 ゴメンナサイ

  鳥栖機関区は大きな扇形車庫が2つもあり、かつて九州の鉄道網の中心地であった機関車基地でした。昭和47年3月にはSLは無配置となりディーゼル機関車基地となっていました。長崎線方面行きの客車列車のほとんどはこの駅で機関車が交代、その作業を見学することができました。1日ホームにいても飽きが来ない素晴らしい場所でした。

 しかし昭和59年2月、所属車両がすべて他区へ転出し車両無配置の乗務員区となりました。今では当時の活況は嘘のように静まり返った駅になっていますが、ホームや駅舎は昔の面影を残しています。

つづく

 

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駅弁の想い出【東唐津駅】

 昭和40年代、当時の「駅」としてのステイタスは「駅弁」「赤帽」そして「みどりの窓口」がある駅でした。交通公社の時刻表に記載されており、私の中で鉄道旅(想像のなかでの旅)重要な情報でした。(実際行けないので・・・) 

 今回の筑肥線東唐津駅」は、主要本線以外で「駅弁」を販売する唯一の駅としてとてもステイタスが高い駅でした。列車の本数に比べ乗客がとても多く、赤字国鉄とは思えない情況でした。しかし列車の車両はとても古いものが充当され、長椅子の車両がメインでした。 

 列車の窓からの景色、玄界灘の海が美しく、観光を目的とする乗客にもとてもよい路線だったといえます。

 

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1976年8月 東唐津駅 

 東唐津駅にはディーゼルカー車両基地があり、いつもたくさんの車両が滞留していました。ホームは一面で1・2番乗り場があり、主要駅らしく鉄道弘済会売店が設置されていました。門司港駅のように終着駅の構造で、すべての列車がここでスイッチバックします。 

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     昭和50年4月 東唐津駅弁の掛け紙

          とても趣がある掛け紙です!!

 当時、長時間停車の中、ホームの売店で駅弁の販売がされており、弁当を買ったものの、乗客がどっと乗車し満杯になりました。そのなかで駅弁を食べましたが、味わって食べられる雰囲気ではなく、さすがに子供の私でも楽しみにしていた駅弁を味わうことができませんでした。

 塩しゃけが入っていたのが印象に残っており、列車内の雰囲気なのか美味しくなかった記憶があります。

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 昭和52年頃の掛け紙、個性がなくなり面白くありませんね!! 

 

 

 

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国鉄時代の松浦駅②臨時急行

平戸大橋が開通した昭和52年4月、国鉄松浦線は福岡方面からの観光客が増加しました。その頃の多客期間に臨時急行列車平戸51号が運行されまていました。博多発筑肥線松浦線経由で平戸口どまりの臨時列車です。

 急行「平戸号」に続き2本目の急行がなんと松浦線に運行される!!当時大興奮しカメラを持って出かけました。ワクワクドキドキで行ってみると、古い2両編成で非冷房車が担当車両でした。どう見ても普段普通列車に使用されるような車両だったのでちょっぴり違和感を感じました。

 やはり松浦線は田舎だからこんな格下車両を充当したのかな?と感じました。

しかしながらバスのような窓が珍しい車両でしたので貴重な写真を撮ることができました。

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昭和52年平戸51号博多行き 松浦にて 

 

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臨時急行「平戸」 平戸口にて

 古い写真で写りが良くありません。ゴメンナサイ!!

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 臨時急行平戸52号? 博多駅にて    通常運行の平戸号 博多行き松浦駅

こちらは後日博多駅で撮った写真です。この写真も非冷房車です。普段見ない「黄色の列車」だったので、貴重な感じがしました。修学旅行などの臨時専用車両だったそうです。

 この臨時急行列車の停車駅は、通常の「平戸」号よりも多く、普段は急行の止まらなかった駅もありました。

 しかしこの臨時運行も乗車率もだんだんと落ちてゆき、長くは続かなかったようです。

 つづく

国鉄時代の早岐

 昭和50年前後、国鉄時代、佐世保線の一大拠点早岐佐世保線松浦線大村線の中心駅、ここは機関区・客貨車区などが置かれ、鉄道の街として発展しました。

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   昭和50年臨時特急あかつき51号 全車座席車

佐世保発着の長距離列車はすべて早岐車両基地で整備・点検を行います。国鉄時代の寝台特急の車両運用が「あかつき」の車両が「日本海」に使われ青森まで広域運用されており話題になっていました。
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昭和50年11月早岐客貨車区 あかつきと西海

 国鉄時代も今でも早岐を起終点にした列車が多数あります。佐世保線はこの駅でスイッチバックします。当然機関車の入れ替え作業がありますので、停車時間も長くなっていました。

 昭和47年3月までに蒸気機関車の配置はなくなり、ディーゼル天国となりました。その後、新幹線開業までの期間は京都行き特急「かもめ」、東京行き寝台特急「さくら」、新大阪行き寝台特急「あかつき」2往復、大阪行き急行「西海1号」などの優等列車があり、早岐車両基地も賑やかでした。特に急行「西海1号」は魅力的な編成(A寝台・グリーン車・B寝台・普通車両)で1度は乗ってみたいと思っていました。昭和50年3月9日、特急「かもめ」は廃止、急行西海1号は新型客車(14系)に車両変更、すべて座席車のみの編成となりました。 

 

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    昭和50年11月 寝台特急あかつき 

 その後、昭和51年7月電化開業とともにたくさんの電気機関車がやって来ました。まだまだ多数の優等列車が活躍していましたが、昭和55年「西海」号廃止、その20年後「さくら」の廃止は衝撃的な出来事でした。更にその数か月後「あかつき」の廃止は国鉄時代からの想い出を持っている人には救いようのない出来事でした。今では長崎の車両基地早岐に移転、長年続いた駅の景観も失われつつあります。長距離列車は皆無、優等列車は「みどり号」だけ運行しています。

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     昭和51年7月 急行西海 早岐 大塔間 

 

 

 

 

 

 

 

 

駅弁の想い出 長崎駅

 長崎線終点の長崎駅。新幹線博多開業前の昭和49年、在来線の優等列車の最盛期でした。京都行き特急かもめ、東京行き寝台特急「さくら」、「はやぶさ」、大阪行き寝台特急「あかつき」4往復、京都行き急行「雲仙」、さらには呉行き急行「出島」、別府行き「西九州」、熊本行「筑後」、小倉・博多行き急行「いなさ」、大村線松浦線筑肥線経由博多行き「平戸」などが運行、「ディーゼル天国」としてとても充実した時代でした。

 ホームは2面あり跨線橋で乗客は移動していました。待合室の窓越しに車両基地があり、ステンドグラスを備えた三角屋根の駅舎が特徴的な駅でしたが、2000年ころ老朽化で取り壊され今の姿になりました。

 駅弁は「日本食堂」が製造販売しており、特殊弁当として「かしわめし」、「ちらしずし」が売られていました。日本食堂がやっていたせいか駅弁の存在感が薄く、長崎ならではの特殊弁当がありませんでした。駅弁の中身もいまひとつよくなかった記憶があります。

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昭和50年頃の幕の内400円         昭和48年11月300円

現在は、JR九州の子会社売店が市内の料理店から弁当を仕入れて売る形態を取っています。「卓袱弁当」「トルコライス」「角煮めし」など多種多彩の長崎を感じさせる名物料理が駅弁として販売されています。

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昭和48年11月当時の長崎駅DJスタンプ     平成20年3月 角煮繚乱弁当

 

駅弁の想い出 諫早駅

 長崎線諫早駅。かつて国鉄時代、長崎線肥前山口駅から下り、有明海沿線を走って諫早駅まで駅弁の販売駅はありませんでした。この駅では大村線島原鉄道の分岐駅で主要駅として賑わっていました。

 この駅弁の掛け紙は昭和48年11月のものです。今はなき急行平戸号の車内から立ち売りのものを購入しました。当時私は子供だったので、車内から弁当屋を呼んでも声が小さく気付いてもらえず困っているとき、前の席に座っていたおじさんが大声で立ち売りのお弁当屋を呼んでもらった想い出があります。

 さすがに駅弁の中身までは忘れてしまいました。諫早駅開業の明治時代から続いていた「中村屋」がこの駅の駅弁業者でした。名物弁当としては「うなぎ弁当」がありました。諫早名物の楽焼うなぎが有名です。いつの間にかに駅弁の販売もなくなり寂しい限りです。

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       昭和48年11月 諫早駅 南蛮弁当 400円

今では昔からの駅舎も取り壊され、長崎新幹線の開業に対応可能な、個性のない新しい駅に生まれ変わりました。